トッペマ


プロローグ 未来のはじまり

2050年、量子をはじめとする様々な科学技術が発展した少し先の未来。

医療、創薬、物流、通信、宇宙——あらゆる領域がかつてない速度で進化し、人々の暮らしも価値観も塗り替えられていく。

量子技術を得た人類は「知」を瞬時に共有し、かつてないコラボレーションが日常となっていた。

例えば、インターネットはすでに「基本的人権」として認められ、世界中の誰もが無制限・無料でアクセスできる。

日々、膨大な研究データや知識が瞬時に世界を巡り、人類の叡智が詰まったオープンデータベース・the H(叡智)があらゆる人に開かれた。

国家や企業の垣根を超えた共同研究が加速し、量子インターネットを通じて世界中のラボがリアルタイムで情報や量子データ、さらには量子状態そのものをやり取りすることが当たり前になり、あらゆる複合領域が誕生した。

こうした科学の奔流の中、量子技術によるバイオ改革が始まって十年が経った。

N国では、量子コンピュータによる材料開発・創薬技術のインフラ化と生体遺伝子再設計技術がいち早く実現し、様々な病気が根絶された。

新薬の開発では、いまや世界中の研究所が同時に独自の量子状態を生み出し、それらを量子ネットワーク上でリアルタイムに転写・共有するのが当たり前になった。

遠く離れた複数のラボで生まれた異なる量子状態は、量子テレポーテーション技術によってひとつに融合され、その場で最適な分子設計として現れる。

こうして、従来なら膨大な時間と労力を要した新薬や治療法の発見も、一瞬で実現する時代となっている。

生きている人間の遺伝子改造の倫理的是非はその恩恵の前にかき消された。

しかし、寿命を伸ばす研究の実施は止められていた。

2048年に国連で採択されたILERT(ヒト寿命延伸研究モラトリアム条約)により、「平均寿命+二十年」を超える臨床試験は、今後十年間凍結されることとなった。

賛成派は、死からの解放を切実に求める。

一方、反対派は、寿命を伸ばす薬を買えない人たちとの不平等や、死なないことによって人間の数がひたすら増え続けた先の未来にもたらされるであろう食糧危機や環境問題を気にしていた。

知性を発展させる薬や遺伝子改造の研究も止められていた。

知性が急激に発展した新世代が現れた時、知性に劣る旧世代の人間達はどうなってしまうのか。

旧世代である政治家達も及び腰だった。

S国では既に不老不死の遺伝子改造ベビーが誕生したらしい。

知性を改造された子どもが政府高官の養子になったニュースもあった。

科学技術に対する意識の違いが国家間の格差に直結している。

かつて存在した社会問題になぞらえて東西問題と呼ばれていた。

そんな中、量子ブラックハッカー達によってS国の技術が漏洩した。

その技術の無闇な拡散は、改造反対派の量子ホワイトハッカーによって食い止められた。

盗まれた技術の詳細資料と、侵入したサーバの量子データを量子テレポーテーションで盗むために生成したものの使い切らなかった量子もつれの残りは、これもまた量子ハッキングによってどこかの研究施設のサーバにある膨大な遺伝子モデルプールの中に隠されたと噂されていた。

その通信には量子宛先秘匿通信が利用されていた。

倫理基準が揺らぐなか、一部の研究者たちは規制の網目をかいくぐる方法を探した。

——〈人間ではなく動物ならば〉。

そうして誕生したのが、政府管轄の次世代生体倫理監理機構(略してNext-generation Institute for BioEthics Oversight:通称NIBEO)だ。

そこでは〈人に適用する前段階〉として、猫や犬、さらには霊長類の遺伝子を用いた老化抑制プロジェクトが秘密裏に進められていた。

もし動物モデルで延命に成功すれば、世論の反対を押し切るための“成功例”として提示できる。

だが失敗したとしても「動物実験の範囲」で済ませられる——そんな打算が横たわっていた。

そして、そのNIBEOにひっそりと搬入された一匹の幼い三毛猫——コードネーム〈T-PMA-03〉。

治験番号から名付けられたその猫は、「トッペマ」と呼ばれていた。

彼は本来、老化抑制プロジェクトの実験体として選ばれた。

細胞の老化過程そのものを遺伝子に書き込んだ量子状態を用いてリセットし、若返りや細胞修復を促すことが目的だった。

しかし、実験は失敗に終わった。


一章 ケージの中の猫

トッペマ——。

私はそう呼ばれている。

NIBEOの研究者が猫の寿命を長くしたいとかで、実験台に私が選ばれた。

ここに来る前は、なんと呼ばれていたのか、母の顔さえ思い出せない。

最も古い記憶は、白い天井と額や背中についた小さな装置だ。

そのときの私は何も分からなかったが、今ではあらゆる生体信号が記録されているのだと分かった。

いつ頃からか、私の頭の中は以前よりもすっきりし、まるで霧が晴れるような感覚が続いた。

「可哀想にな」

時おり、そんな研究者たちの声がゲージ越しに聞こえてきた。

「可哀想」なのだろうか——。

ここにいれば、雨に濡れることもなく、食事の心配することもなく暮らしていける。

何よりも、「規則正しい」生活が心に平穏をもたらしている。

確かに、最初のうちは毎日がただ過ぎていくだけでつまらなかった気がする。

だが、いつ頃からか、気づかぬうちに私は考える時間が増えていき、実験が終わるたびに身の回りの些細な変化に敏感になった。

ある日、途方にふけていた私は、隣のケージの黒猫に解錠できることを伝えてみた。

なにも難しくはない。

ただ人間をむやみに刺激してしまわないよう、床に落ちていた餌を使って解除手順を伝えたが、返ってくるのはきょとんとした顔か、ただの短い鳴き声だけだった。

ちょうどその日、知能発達計画のサンプルであった隣の黒猫がテストを受けていた。

研究者は、ランダムな色のパネルを四十五回点滅させ、アルゴリズムの画像を提示し「特定の順序で踏め」という指示を出していた。

簡単だ。

次の問題は、二千四十八ビットの素因数分解だった。

何のことはない。

私は二つとも正解が分かった。

黒猫には一問も解けない。

私はただ静かに観察していただけだったが、計算も記憶もすべて、ごく自然な行為だった。

私は他の猫とは違う。

だが、規則正しい生活は変わらない。

毎朝八時に、自動給餌器が食事を補給。

毎週火曜と木曜の九時にはケージの清掃、十時には健康チェック。

十一時から十六時は実験、十六時から十七時は記録とID整理、そして十九時には消灯。

その繰り返しの日々は、もうすぐ六百日をカウントする。

彼らは猫の姿をした私のことを下等な動物としか見ていないようだった。

研究の話だけでなく、最近見た夢の話や上司の愚痴など記録は多岐に渡る。

人間の社会というものはなぜこんなにもくだらないのか、私は何度もそう思った。

だが、このガラスの外に広がるもの——

不規則に吹く風、ころころと色を変える空、自由に飛び交う虫たち。

私の理解の範疇を超えた無秩序が、窓の外に広がっているはずなのだ。

見たこともないのに、知識としては知っていた。

生きる理由を、あの世界は知っているのだろうか?

ただの寿命延長ではない、別の“時間の使い方”があるような気がした。

私は、外を観察する。

憧れているのかもしれない。

「解析結果が出ました。他の猫とほとんど差がないって。実験は失敗ですよ。 残念ながらトッペマは廃棄です。気の毒だなぁ。」

「そもそも、遺伝子に設計図を量子三Dプリンティングした際のフィードバックもおかしかったんです。まるで誤ったデータをテレポーテーションで転写したときのような。」

五百六十七日目のあるとき、そんな会話が聞こえてきた。

良い機会だ。

私は脱走することにした。

それから今日まで、脱走の糸口を見つけるために小さな実験を行ってきた。

秩序だっているがゆえに、行く先が見える。

水が汲まれた皿をわざと倒しセンサーの反応を確かめる。

尾で赤外線を遮り警報の遅延を測り、その結果を脳内の記憶野に保存する。

この実験は二百回を超えた。

そして導き出した最適解は、木曜日の九時に毎週行われる清掃——そこが狙い目だ。

都合の良いことに、清掃員の男は私を可愛がってくれる。

私も彼のことを気に入っている。

人間は頭部に毛が密集していて、気味が悪いと常々思っているのだが、彼にはないのだ。

ここで働く人間は研究者がほとんどであるから、それ以外の人間は珍しい。

他の多くの単純な作業は静かな機械たちに委ねられているという。

ただ、安価なAIロボットを使うと、視聴覚カメラ映像がクラウドに送られて研究データ漏洩リスクがあるために、この呑気な男が雇われているんだとか。

彼は清掃に入るとき、必ず鉄格子の扉を全開にする癖がある。

逃げないとでも思っているのだろうか。

あるいは、動物に自由を与えたつもりになって、少しだけ善良な人間になれると信じているのか。

私は彼の愚かさに賭けることにした。

彼がこの部屋に入ってモップがけを始めてから一分三十五秒あたり、彼が部屋の一番奥に入ってきたタイミングでこの部屋から逃げ出すのだ。

そしてこの部屋を出て、廊下の角を曲がる必要がある。

そこまではカメラの死角が続く。

シミュレーションは完璧だ。

後は実行するのみ。

私は単なる実験動物ではない。

この部屋の構造、清掃員の癖、監視カメラの死角、ドアの開閉のタイミング、光と音の波形——すべて私の中に記録されている。

「ねえ、聞いた?今日から都内のほとんどで“脳波ペイ”が使えるらしいよ。」

「思考ひとつでお金が動くなんて、まるで神の御業をポケットに入れた気分だ。便利だけど、何か畏れも感じるね。」

「“御業”ってよりは、役所が祀り上げたAIのご加護ってところかな。——でも、もう僕らの日常は半分宗教みたいなものかもしれない。」

部屋の向こう側からこんな話し声が聞こえた。

自分たちの知能を超えた曖昧な何かを頼りに生きる彼ら。

私にはそれが霧の中を手探りで進むようにしか映らない。

しかし人間たちは何よりそんな大きなものにすがって生きる自分たちに酔っているようにも観察された。

なぜそんな非効率なことにわざわざ力を注ぐのか。

なぜ生物に必ず訪れる「死」を恐れ、その時期を遅らせようと奔走するのか。

一方で私の身体は、無数の試行錯誤の末に生まれた。

だがその過程に神は必要なかった。

進化と修正。

失敗と淘汰。

複雑さは、秩序なき反復からも生まれる。

だから私は信じることが出来ない。

そう思っていた矢先、脱出を試みた今日に限って、清掃員のルーティンが、わずかに狂っていた。代わりに、彼は誰かと話していた。

「ああ、そうだ。トッペマのところの……清掃担当でしたよね?あの猫、廃棄対象になってしまったから、今日は掃除しなくて大丈夫ですからね。」

「そ、そうなんですか……あ、通路のモーションセンサー、今日だけオフにしておきます。廃棄予定のケージじゃ無駄な電力ですし。……鳴らなければ誰も来ませんから。」

扉はまだ開かれない。

いつもなら、もう開いて清掃員が部屋に掃除に入ってくるはずの時間に、彼の足音が部屋から遠のくのが聞こえた。

計画は始まりもしないまま、このまま終わるのだろうか。

普段とは異なるオペレーションによってエラーが発生することを想定していなかった。

自分の力ではどうしようもない時、何かにすがりたい時、人々は祈るのだろう。

そうすれば、少しは気休めにはなるはずだ。

つい先ほどまで懐疑的な態度だった私だが、恥を忍んで祈ってみる。

「にゃー」

足音が段々と近づいてきた。

忘れ物でもしたのだろうか。

通り過ぎてしまえば私は“廃棄”だ。

お願いだから止まって欲しい。

がちゃりと扉の音がする。

清掃員だ。

すると手に持っていたスプレーボトルを離し、ガシャンと音が響いたと同時に私の部屋の扉を開けたのだった。

「あーあ。やっちゃったなぁ。」

彼は、しゃがんでスプレーボトルを拾いながら、ちらりと私の方を見た。

ふだんより、少し長く、眉毛の下がった顔で。

「濡れちゃったな……ごめんな」

彼はケージを開けて、私の身体を撫でた。

それから私を戻すことなく、扉も開けっ放しのままだ。

彼の声も、態度も、行動も、私にはただの変則的な誤作動にしか思えなかった。

ゆっくりと、部屋の出口へ歩き出す。

私は部屋から一歩踏み出すと床を見つめた。

水分が肉球の間に染みこんだ。

肉球に滲む水の冷たさ。

初めて知る感触に、わずかに足がすくむ。

けれど、理由もなく、そのまま走り出していた。


二章 トッペマ、出会う

私は思わず瞳孔を絞る。

外の世界は明るすぎる。

目が慣れるには少し時間が必要そうだ。

初めて踏んだアスファルトの新鮮な感覚。

微かな風がやさしく私の足元を撫でていた。

それは、熱すると風を発生する塗料物質が量子コンピュータによって発見されたためだった。

ヒートアイランド現象など、遠い昔の歴史ドラマ。

いま都市を流れる風は、量子コンピュータによって飛躍的に進化した流体力学シミュレーションが生み出した成果だ。

常に流れる空気は、コロナウイルスのような感染症ウイルスや細菌を都市に滞留させず、公衆衛生の向上にも寄与している。

しかし、この塗料にも欠点があった。

亀裂が入りやすいのだ。

しかし、量子技術によってインフラの異常を発見する異常検知がこの問題を解決している。

発見された亀裂はドローンによって迅速に修復され、いつでも新品同様の都市インフラが実現していた。

実は量子技術を本気で使えば亀裂未満の状態でも発見して「事前」修復できるが、都市規模でその技術を使うとコストに見合わないので使っていないらしい。

宇宙ステーションや月面都市など、小さな綻びが命取りになりうる宇宙開発の最前線で使われている技術である。

さらには深海基地といった、人類が未踏の海底資源や新たな生命を探索する場面でも、この技術は不可欠だ。

NIBEOではこういった話題で常に盛り上がっていた。

この風と熱を迅速に放出する塗料のおかげで、道は冷えていた。

もしもこの場所に風がなければ、私はとても歩くことなどできなかっただろう。

しばらく進むうち、爪が何度か、地面の亀裂にひっかかった。

振り返ると空気を切るようなモーター音が近づき、小さな機械——ドローンが、その亀裂を静かに修復していくのだった。

ドローンは全て量子デバイスだった。

異常検知といった機能はもとより、量子通信による強固なセキュリティがなければ、いつでもテロに使われる恐れが高まる。

この都市の快適性と安全性は量子通信に支えられている。

私は酔った。

研究室は整然としていたのに、外の世界は雑然としている。

まるでまとまりがない。

呆れると同時に、私の中で未知なるものへの関心が増大していた。

私は道路の隅から忙しなく動きまわる人間たちを、遠巻きに観察することにした。

突然、数メートル先から鋭い光が私の足元に届いた。

どこから発生しているものなのか視線で追ってみると、小さな人間が目に入った。

彼女の持っていた筒状の容器が太陽の光を反射していたのだ。

歩く度に、その光も一定のテンポで動いていて、私は注意を向けざるを得ない。

すると、突然容器の蓋が外れ、中に入っていたたくさんの小さくて白い粒が地面にばら撒かれた。

その小さい人間は身をかがめて散らばった粒を拾い集めていた。

食べ物だろうか?

よく見ると筒には「ひまわり-10号」と書かれたラベルが貼られており、落ちた粒は◯◎⦿といった妙なデザインが施されている——割れた粒からは柑橘系の香り。

手を繋いでいた皺の深い女性が言った。

「あらあらハナちゃん、アポロが落ちちゃったよ。」

「ちがうよおばあちゃん。ひまわり-10ごうだよ。」

鼻の奥が震えた。

NIBEOで与えられた無機質なペーストにはない刺激。

小さな人間は、指でひと粒ずつ拾いあげようとしては、また滑らせていた。

そして、彼女は目を潤ませ、肩を震わせ、ギャーギャーと音を発している。

「ハナちゃん、またおじいちゃんが買ってくれるからね。そんなに泣かないの。」

そう言って女性が小さい人間の頭を撫でても、その小さな人間は叫ぶことを一向に止めようとしない。

——うるさい。

これは人間が見せる「泣く」という情動の一種なのか。

生起プロセスは分かるのに、どうして泣く必要があるのか、まるで腑に落ちない。

なぜ泣く?

食べ物が地面に落ちた、ただそれだけのことだ。

また与えられるのを待てば済むものを。

……理解不能。

だが胸の奥がかすかに揺らいだ。

もう少し近づいてみることにした。

情動物質の匂いがする。

あれには、特別な思いが込められているのか。

「ぐうー」

腹部から音が鳴る。

鈍い違和感があることに気づいた。

燃料不足。

機能低下の予兆。

私は視線を落とした。

足元に転がる「ひまわり-10号」のかけら。

彼女の目を盗んで粒を摂取することは簡単だ。

だが、それは泣くという行為の対象となっていた粒だった。

それを頂戴するのは、好奇心とは違う、もっと深い場所からこみ上げる、名前もつけられない何かが拒否していた。

彼女を観察した今では、「食糧調達」の意味が変わってしまっていた。

私は踵を返し、通りを離れた。

何か、別の方法で——

食料を調達する必要がある。

草むらに入ると、ネズミが何かを食べているのが目に入った。

まだ、こちらに気づいていない。

私はネズミの真後ろに入って身をかがめ、狙いを定めようと一歩近づいた。

捕らえよう。

殺してしまおう。

だが、どうしても腕に力が入らず爪も立たない。

次の一歩が、地面を踏むだけの行為に思えて、動けなくなった。

NIBEO内で暮らしていたころは、私はただ与えられ続けてきた。

栄養価の高い合成餌。

毎朝八時に、容器に満たされた液体。

何もしなくても必要なものは揃っていた。

だが、今は生きるための選択が常に迫られる。

前脚は獲物へ伸び、後脚は地面に縫い付けられた。

ここでは私は臆病者だ。

静かに、風が抜けた。

私は、ひとまず身を伏せた。

「生きる」とは、予測不能の連続に対する一種の適応行動なのかもしれない。

だとすれば私は、まだ適応していない。

そんなことを思っているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。

空腹は増すばかり。

動くのは勿論、思考するのも疲れてきた。

「廃棄」は痛みを感じずに済むのだろうか——。

生産的ではない考えに頭の中が支配される。

「わん!わん!」

油断した。

大きくてよだれくさいやつが私に向かって吠えている。

「こら!ポチ!静かにしなさい!」

小太りの女が犬に負けないくらい大きな声を出している。

「何か見つけたんじゃない?」

と、間抜けな顔をした犬を抱いた女が言った。

二人の女が垣根を覗き込み、見つかってしまった私は死を覚悟した。

短い時間の観察に終わってしまったが、有意義なデータ収集ができた。

しかし、次に聞こえたのは穏やかな声だった。

「あのう。うちに何か御用でしょうか?」

年老いた女の声。

「典子さん!なんか、お宅の垣根で猫ちゃんがぐったりしてて……」

「どれどれ……」

犬を飼っている人間は、犬が何を欲するかを見るのではなく、自分の感じ取りたいものを見出す。

非常におこがましい。

しかし、このノリコからはそういった厚かましさを感じられない、犬飼い女よりはマシな人間に見える。

「ま、私がなんとかしておきましょう。」

よだれ臭軍団は去り、私は一時失った冷静さを取り戻した。

「お腹空いてるでしょ。家でご飯でもお食べなさいよ。」

私はどうしようもなく、ノリコに抱えられた。

ノリコは金色の瞳を覗き込んだ。 「毛並みが虎みたいね。……トラちゃん、でいいかしら」

逃げようとはしなかった。 ひとまず、ノリコの提案を受け入れてみることにした。


三章 典子

典子は一日の終わりに日記を書くことに決めている。

「ありふれた人生を歩んできた。

普通に学校を卒業し、皆と同じように就職して、平凡な家庭をもった。

規則正しく、一つひとつを丁寧に暮らし、ささやかな安らぎを大切にしてきた。

だからといって、単調な毎日をただやり過ごしていたわけではない。

百円ショップで見つけた便利グッズで暮らしが少し良くなったり、ご飯が美味しく感じられたり、そういったことが嬉しかったりする。

でも本当に時々、初恋のときめきや、

舞台の幕が上がる前の静かな高揚感のような瞬間が、ふいに恋しくなる。

誰かのセリフに心を奪われたり、

窓の外の夕焼けを見て「この場面の主人公になれたら」と想像してみたり——

そんなふうに、現実と物語のあいだをさまよう時間が、私には確かにあった。

ふと眠りにつくとき、昔見たドラマのワンシーンを思い出す。

けれども、朝起きるとまた、ごく普通の今日が始まる。

たまに夢で見るもう会えなくなった人たちが少し恋しい。

朝はニュースをみる。

いつ頃からか、世の中は瞬く間に変わってしまうようになったから、自分の生活が穏やかであるように、日々の出来事を確認する。

最近は、新しい便利さや安心が、気がつけば当たり前になっている。

インターネットやスマホが話題だったころは、私でも何とかついていけた。

けれど、量子ネットワークだとか、“QuBE”だとか、最近の話題は正直、さっぱりわからない。

——Quantum Brain Environment(QuBE)。

その中枢は月面地下に構築され、地球と宇宙、軌道上のステーションや都市インフラまで、量子ネットワークで世界中の記憶や感情、治療データや個人の意識がつながっている。

都市に暮らす人々の多くが、オーダーメイド医薬品や個別最適化された介入型サービスを日々受け、量子技術は社会の隅々にまで浸透している。

QuBEは、“量子的に繋がる”ためのデバイスらしい。

いつの間にか、みんなスマホではなくQuBEを持つようになった。

量子的につながってると、見えないはずのものが見えたり、AIが賢くなったり、身体の各所のデータを取得して、時には身体にフィードバックして、体調管理の精度が上がったりするらしい。

セキュリティも向上する、と聞いたけれど、昔から困ったことがないので、実感がわかない。

生活のいたるところに「量子」という言葉がしみ込んだ。

銀行のアプリも、病院の診察も、スーパーのレジも、「量子」が支えているとニュースで聞くたびに、昔とはまるで違う世界に来てしまったような気がする。

けれど、目の前の暮らしは、どこか変わらず静かだ。

夫とはもうずっと昔に離婚して、子供も遠くで暮らしているから、今は誰かを気遣う必要もない。

そんな時に「トラちゃん」が来てくれた。

この子がいるだけで、私は毎日が愛おしくて仕方がない。」


四章 トッペマ、新しい日常

私はノリコの家に連れてこられた日、部屋の隅から隅まで調査した。

“これから、ここが縄張りになる”

私はそう予感したが、この家の匂いにはすぐには慣れなかった。

年寄りの匂いは苦手だ。

机が一卓に椅子が二脚。

上って安心する高さのものがほぼない……

うまくやっていけるか不安になった。

そうだ。

窓際にあるチクチクした植物でも落としてやろう。

そうすれば気も紛れるはずだ。

チクチクの隣には、小さな人の写真が窓際に飾ってある。

目元がノリコに似てなくもない。

「こら!今、悪い事しようとしてたでしょ。ほら、ごはん買ってきたの」

「スーパーで一番人気だった『とぅ〜な』よ。きっと美味しいわ」

そう言ってノリコはレトルトのパウチを皿に空けた。

その手付きは不器用で、スプーンから落ちたペーストを「ごめんごめん」と言いながら私の前に寄せてくれた。

私は新しい世界の入り口で、慎重に匂いを嗅ぎ、少しずつ口にした。

口いっぱいに広がるまろやかな旨み。

噛めば噛むほど広がる香りに私は衝撃を受けた。

これが、とぅ〜な……

以来、私はとぅ〜なの大ファンとなった。

ラベルには「合成魚肉〜ツナ風味〜」と記されている。

人間たちが工場で育てた細胞から作ったものらしい。

以前、典子から本物のツナを食べさせてもらったが、私には区別がつかなかった。

新しい味を知ること。

ノリコの生活リズムや好みを知ること。

それらと同時に、自分の世界も広がる気がしていた。

しばらくして、ここでの暮らしにも慣れてきた。

朝は、”典子”の「おはよう、トラちゃん」で始まる。

布団から起き上がった彼女が、私の背をそっと撫でる。

手のひらは少し冷たく、指先には薬草の香りが染みついている。

パウチの封を切る音がすれば、私はどこにいてもすぐに駆け寄る。

この家の朝は、そうやってリズムができていく。

時々、台所の机に飛び乗ってみせると、「やだやだ、そんな所に乗っちゃダメ」と典子は笑う。

それでも最後は根負けして、膝の上をそっと差し出してくれる。

「トラちゃん、お利口さんだった?」

その声の響きが体に馴染んでいった。

それからさらに時が経ち、お互いの存在が当たり前となった。

私があらゆる道具を調査したり、配達ドローンを観察したりするのも、どこか好意的な眼差しで見てくれている気がした。

「トラちゃんの趣味は、“冒険”することなのかしら」

と、嬉しそうに微笑むこともあった。

ただ、時折、遠くを見るような顔をする。

この家で迎える五回目の夏が来た。

青い空に広がる白い雲がまぶしい。

私はバルコニーから低くモーター音を立てるドローンをじっと見ている。

前足の届きそうなドローンには“ちょっかい”を出してしまう。

センサー部分に前足で触れてみたり、アンテナをいじってみたり。

物陰から出てくるドローンを予測してボールをぶつけてみたりする。

トッペマには、なぜだか街中のドローンの位置が分かる。

それどころか、次に何をしようとしているか、何を計算しているかまで検索できる。

位置予測などはお手の物だった。

その様子を見て、典子が「こら!また悪さして!」と叱る。

家の中には新しいおもちゃが増え、私の探検する場所が日々更新されていく。

私にとっては愉快なおもちゃは、典子にとっては難しいものらしい。

「何だか難しいことばかりだわ」

と呟きながらも、彼女は度々新しいものを持ってきてくれる。

分かってきたことがある。

どれも人間の子供向けだ。

私は、まだ一度も、典子の息子も孫も見たことがない。

あと一ヶ月で八十の誕生日を迎える典子に“悠寿キット八十”なるものが届いた。

なんでも、再生医療やナノ治療などが年三回無償で受けられる特典がついたキットらしい。

この年になったら誕生日なんて嬉しくないのよ、とため息をつく。

私が死ぬのが早いか、それとも典子が早いか、そんなことをつい考えてしまうようになった。

そんなことを気にしていても仕方がないのに。

私が死んだら、この人はどうなるのだろうかと、と気をもんでしまっている。

毎週火曜日と金曜日にサイトウという梅干しみたいな奴が典子を連れていく。

ここ一ヶ月ほど、典子が頻繁にご飯をくれるようになったから、彼女が帰るまでの間は街をパトロールしたり、配達ドローンを捕獲したりして運動をする。

疲れたら昼寝をして、新しいおもちゃを試してみたりしている。

「典子さん、おはようございます。今日は少し暖かいですね。」

と言ったかと思えば、こちらを向いて「あんた、かわいくないね」と一瞥する。

嫌な女だ。

私はそれに反応せず、ただ静かにその場を離れる。

人間たちの会話のリズムを、廊下の陰で聞いている。

サイトウは典子の手を引き、支えるようにして玄関を出る。

マンションの廊下に出ると、典子は立ち止まって辺りを見渡す。

空は重く曇っていて、遠くで補修ドローンが壁に泡を吹き付けている。

エントランスの前には白い車が停まっている。

自動でドアが開き、サイトウが先に乗る。

典子は一度空を見上げて、ゆっくりと助手席に体を納める。

私はバルコニーから、その様子をずっと見送っていた——。

ガチャリ、とドアの音。 典子が帰ってきたのだ。

ここ数日は「トラちゃん、ただいま。」の挨拶がない。

「私はここにいるよ」と伝えるために音を出すが、いつも通り私の口から出てくるのは「にゃー」という音でしかない。

「あら、ご飯の時間だわね。」

と料理の支度に取り掛かる。

冷蔵庫を開けると「あらやだ。」とエアコンのリモコン。

「ほら、今日はトーストよ。……あらやだ、猫はパンは食べないわよね。」

困ったように笑って私の前に皿を置く。

典子はいつもと違う場所を何度も確認し、しばらくしてやっとご飯がでてきた。

静かな寂しさが、胸にぽっかりと穴をあけた。

私は、典子がどこへ連れて行かれているのか知らない。

彼女は帰ってくるたびに、新しいおもちゃ——小さなガジェットを持ち帰ってきた。

それらの数に反比例して、私たちの時間が減っていった。

いつものリズムが、少しずつズレていく気がする。

ある日のこと。

「トラちゃん、ごはんの時間よ〜」

いつもと同じ声。

だが、彼女の手元にあるのは乳児向けの食事だった。

食事を間違えることなど、今までなかった。

典子の瞳は濁っていた。

思考が宙を彷徨っているようだった。

「ねえ、トラちゃん。最近、夢がね、うるさくって……」

そんなことを思いながら外を眺めていると、ふいに奇天烈な音楽が聞こえてきた。 自動運転の車が、けばけばしいコマーシャルを流しながら道をゆっくり走っている。

あまりの音量に、思わず典子を見た。

典子は興味深げに眺めていた。

車体には大きく、こう書かれていた。

「眠りこそ最後のフロンティア。DreamSphere β、今夜から無料体験。 QuBEに簡単インストール。」

季節が一つ巡る間に、典子の背は少しだけ丸くなっていた。

髪は段々と白くなり、歩く足取りも前よりずっとゆっくりになった。

典子は長い間眠りにつくようになった。

以前は、朝の占いのコーナーを欠かさず確認していたのに、今では私が空腹に耐えられなくなる昼頃に、ようやく起きてくる。

それでも、典子は私のそばに来てくれた。

ただ、腰を曲げず、膝をかがまず、立ち尽くしたままだ。

典子は腕を伸ばし、その手は宙を泳いで落ち着かない。

私の頭よりも少し高い位置までしか手は届いていない。

典子は何らかの事情で屈めないのだと思い、ソファに飛び乗った。

やっと、頭を撫でてくれた。

「あなたと一緒で嬉しいわ」

その声は、不思議なほど小さく、かすれていた。

私はそっと典子の脇に身体を捻じ入れる。

彼女の身体が眠っているときのように温かい。

いつもならすぐに弾むはずの指先が、今日は少しだけ遅れて私の背をなぞる。

——おかしい。

典子の身体のリズムがこれまでと違う。

まるで靄がかかって、灯りがかすかに遠ざかるような感覚だった。

典子はふいに立ち上がり、リビングの窓辺に歩み寄った。

外は雨で何も見えない。

「ミルクは……どこだっけ」

ゆっくりと立ち上がり、キッチンの壁を眺めている。

まるでそこに何か書いてあると思っているようだ。

「違うな……あれ、これ昨日の分?」

少し首をかしげ、冷蔵庫を開けて、また閉める。

「ごはん……あれ、もうあげたっけ?」

自分でも何かを思い出そうとするように、部屋をうろうろと歩き回る。

その背中に、私は静かに寄り添いながら、慎重に典子を観察した。

典子は何かに引っ張られるようにして、ベッドに倒れ込んだ。 枕元にある小さな球体は、まるでエイリアンの卵かのように微かに脈動している。

球体にはDreamSphereと書かれていた。

ベッドの脇には、説明書の束が無造作に積まれている。

一枚の説明書には、こう書かれていた。

「“眠りこそ最後のフロンティア” DreamSphereは、あなたが“もう一度会いたい”大切な人や、懐かしい思い出を夢の中でよみがえらせます。忘れかけていた記憶、もう一度見たい風景、やり直したいあの日——あなたの心に寄り添う、世界でひとつだけの夢体験をお届けします。」

つけっぱなしのディスプレイがニュースを流している。

「QuBEの医療モードを悪用し、利用者の脳に過度の不可をかける恐れのある認可外アプリケーションが多数見つかっている問題で……」

典子の寝言が空気を震わせた。

「……知らない人、誰……ここは……ちがう……」

「やめて、そんなに騒がないで……静かにして……」

「誰かの声がする……誰?」

その瞬間、身の毛がよだち、強烈な不安が押し寄せてきた。

私はすぐさま、典子に身体を強く押し当て、その鼓動と呼吸のリズムを慎重に測った。

だが、そのリズムは目の前に置かれたQuBEで実行されているDreamSphereの画面の明滅と奇妙に同期している。

彼女の寝息が乱れ、額に薄く汗がにじむたび、私の全身の感覚器が、異常な揺らぎを捉える。

その微細な明滅は、彼女の脳にまで及び、悪さをしているに違いないのだ。

ベッドサイドのDreamSphereが放つ淡い光とともに、部屋の隅々まで情報の流れが波打つ。

家中の全てが典子の眠りを搾取しているようだった。

もう安心してはいられない。

まるで、その不可視のネットワークの中に、典子が絡め取られていく感覚。

私はDreamSphereの青白い光を、何度も猫目で感じ取った。

夜がふけるほどに、DreamSphereの信号は家の隅々、床や壁の中にまで染み込んでいく。

典子の寝息や体温の微細な変化と、その信号が奇妙に呼応し始めた。

私は違和感の正体を明らかにするため、このDreamSphereを探してネットワーク上を走査する。

私の脳神経を通じて、DreamSphereの内側を流れる微細な信号が全身を駆け巡った。

それは、QuBEのブレインコンピュータインタフェースを介して典子の記憶野や感情を司る中枢と直接つながっている。

この刺激は、単なる音や光の刺激ではなく、彼女の脳のなかの“思い出”や“会いたかった誰か”を、現実よりも鮮やかに、眠りの最中に呼び覚ますためのものだった。

DreamSphereは、眠りの間中、典子の脳波や体温、わずかな呼吸の乱れを検知しながら、

典子の脳の記憶野に蓄積された姿、声や言葉の断片までも呼び出し、感情中枢へ直接送り込むことで、

「もう一度会いたい人」や「懐かしい記憶」を、夢の中で再現していたのだ。

これまで私は、典子の小さな変化に気づいていたはずだった。

だけど、日々の生活が少しずつ変わるのは、年齢を重ねるということだと、どこかで思い込んでいた。

彼女が時々ものを忘れたり、同じ動作を繰り返したりすることも、「まあ、そんなものだろう」と、自分に都合よく解釈していたのだ。

私は夢中でDreamSphereを解析し、典子の脳の記憶野や感情中枢と同期しながら流れ込む、量子情報とその信号を確かめた。

やがて私は、DreamSphereを動かすQuBEと深くつながっていく感覚を覚えた。

都市中の家電や通信、そして無数の人間たちの夢や記憶、そのすべてが、私の内側のどこか——脳でも、神経でもない、もっと中核な場所にある何か——量子もつれが、ネットワークと共存し始めているのを感じた。

私には、自分の身体に、他の誰とも違う、特別な「つながり」があった。

私は猫でありながら、生まれながらに量子的なネットワークのノードとなりうる存在だったのだ。

なぜ自分の神経回路に量子もつれが存在していて、それを介して量子計算を行えるのかは分からない。

おそらく何らかの事故で、ラボで転写されたのだろう。

実験が失敗したのは当然だった。

しかし、DreamSphereを通じてQuBEとつながるたびに、この量子リソースが少しずつ消耗していくことも感じる。

きっと限界は近い。

QuBEの神経系と、自分が静かにもつれ合い、典子の夢の中で何が起きているのか、

DreamSphereを通じて、私は誰よりも早く察知できる。

だからこそ——

この危機を、絶対に見過ごしてはいけない。

私はネットワークを介して、DreamSphereに、猫としての本能を越えた「意思」をそのまま叩き込む。

脳内で何かが閾値を超え、

私の神経回路とDreamSphere内部の量子回路が、ごく短い時間だけもつれ合う。

私はDreamSphereの通信経路を通じてQuBEの内部構造へと意識を送り込み、

DreamSphereが掻い潜っているQuBE側の高負荷検知機能に異常値を感知させる。

QuBEがネットワークに緊急事態を通知する。

QuBE本部でアラートが鳴り、都市の量子ノード管理プログラムが、「異常データ流出ノード」の物理・論理両面での遮断を実行し、全てのDreamSphereはネットワークから強制的に切り離さ れて沈黙した。


五章 記憶と夢

私の遺伝子には、「量子もつれ」という特別な状態が仕組まれていた。

このもつれがどこの何者と繋がっているのかは分からない。しかし、この見えない“つながり”は確実に、量子ネットワークへ私の意識や感覚を直接結びつけていた。

私が背負ったもの。

量子技術がもたらした新しい環境。

そのすべてが、今、私の身体に集約されている。

やるべきことは分かっている。

私は自分の量子もつれリソースを限界まで使い、巨大な創薬データベースにアクセスした。

典子の脳に残る微細な量子的ひずみを修復できる分子設計を探し始める。

膨大な分子モデル群のなかから最適な構造を瞬時に探し出す。だが、選ばれた分子式は地球のどんなラボでも合成できない複雑な設計だった。

私は、その情報を月地下の極低温量子ラボへと転送した。

さらに、力の限りを尽くして、ラボで複雑な処理を行うための量子AIを送り込んだ。

これで、設計図通りの分子が、現実の物質となる。

完成した分子データは、テレポーテーションによって地球の薬剤合成施設に届けられ、量子三Dプリンタが一粒のカプセルとして形にしていく。

この小さな、世界にたった一つの新薬は、典子の脳に残るひずみを治し、彼女の夢をきっと元通りにする。

私は好奇心に駆られて、世界の隅々を“調査”し、記憶してきた。

T-PMA-03という名で呼ばれていた日々も、

人間たちの思惑の外側で、

私は静かに、けれど執拗に、

空気の流れや人の表情、

新しい匂いや音にいつも耳を澄ませていた。

典子と出会い、共に暮らすようになってからは、私は静かな安らぎに包まれていた。

けれど、DreamSphereという不思議なアプリケーションが

典子の夢と現実を少しずつ逆転させていった。

私は——なぜここにいるのか。どうすれば本当に彼女を救えるのか。

DreamSphereは切り離され、典子の眠りは一時の落ち着きを得た。

だが、彼女が目覚めたころ、果たして私と典子の日常は元通りになるのだろうか。

典子の身体は、小刻みに揺れている。

私は額を合わせ、彼女の安静を確かめる。

典子の脳波は、夢を見るはずのレム睡眠の波形をほとんど示していない。

それどころか、深いノンレム睡眠——身体は休まるが、記憶や感情の整理が行われない“沈黙”の状態——に固定されたままになっている。

このままでは、典子はただ当たり前に夢を見て、記憶や心のバランスを保ち、会いたい人に再会することも出来なくなるかもしれない。

彼女を本当に救うためには、典子本来のリズムを取り戻す必要がある。

典子を助けたい。

それは、好奇心とも違う——

もっと深い場所からせりあがる、名前もつけられない何かが、

私を動かしていた気がする。

その答えは、私自身の中にあった。

私は、自分がただの猫になっていくことを感じた。

典子の眠りが覚めることを願って、少しだけ、眠りにつくことにした。


エピローグ 新しい朝

2056年、都市は静かに朝を迎える。

窓の外ではドローンが規則正しく編隊を組み、壁面広告にはQuBEが提供する最新ガジェットの映像が流れている。

人類は、夢や意識さえもデータとして管理し、制御する未来を選んだ。

——Quantum Brain Environment(QuBE)。

その中枢は月面地下に構築され、地球と宇宙、軌道上のステーションや都市インフラまで、量子ネットワークで世界中の記憶や感情、治療データや個人の意識がつながっている。

都市に暮らす人々の多くが、オーダーメイド医薬品や個別最適化された介入型サービスを日々受け、量子技術は社会の隅々にまで浸透している。

ある日——

ひとりの研究者が、奇妙なサーバーログに気づいた。

それは、通常の認証系統を迂回し、独自の量子通信経路からネットワークへ接続した痕跡だった。

その痕跡は、まるで異様な設計図のように記録されていた。

報告書にはこう記されている。

「月面地下の量子データベースに、一件の異常なアクセスログが残された。

通常のプロトコルをすべてすり抜け、誰かが巨大な創薬データベースにグローバーサーチを実行した。

検索された分子式は『CxxxxHyyyyNzzzzO**P**S**F**Cl**』——設計図の一部は、地球上では合成不可能なものだった。

“アクセス者”は、量子もつれリソースを限界まで投じ、月地下の極低温量子ラボへ自己データを転送したようだ。

転送されたデータからの指令で、ラグランジュポイントL5の粒子加速器が励起し、宇宙空間の無重力下でしか実現できない分子構造の一部が生成された。

同時に、海底の超高圧下でしか実現できない分子構造も生成された。これらはレベルファイブの隔離施設だ。人類の何者も侵入できないはずだった。

完成した分子データは量子テレポーテーションにより地上の薬剤合成施設へ届き、AIが短時間で薬剤カプセルを転写合成し、とあるお婆さんの家に送り届けた。

何の変哲もない一人暮らしの、ただ猫を一匹飼ってるだけのお婆さんの親類縁者には、複数の量子情報技術を超高レベルで扱える卓越した技術者はいない。」

この“アクセス者”とは何者なのか——

プログラムにしては挙動が有機的過ぎ、生物にしては的確過ぎる。

その情報は、エントロピーとなって宇宙に消えた。

だが、エントロピーの奥底に潜む量子相関を解読し得る技術がいつの日か芽生えるなら、その答えも分かるかもしれない。